昭和四十七年六月二十三日


「蔭と日なたの心を持つなよ」


これは良く申します。あの人は蔭ひなた無く良く働くと、大体そう云う事を教えておられると思うですねえ、人が見ていろうが見ていまいが、いわゆる神様だけがご承知の世界に生き抜く事なんだから矢張り真面目に陰日向なしに働く、そう云う陰日向の心を持ってはならないと。
 大体そう云う事なのです、ですからお互いも信心させて頂くのですから、何事にも真心になれよという事なのです、ところが問題は何事にも眞心になれよと云う、眞心の見解です。
 見解の相違と云う事を申します、その見解の相違で、ある人はおかげと見、ある人はおかげでは無いと見る訳なんです、ですから私共は全ての中に、おかげと頂けれる心、そう云う心を愈広く大きく頂いていきたい、金光様の御信心は大きいですね、おおきいです、ですからこの辺のところをね、着々として信心を大きく育てて頂いて、大きくお役に立たしてもらう、大きくだから、羽ばたかしてもらわにゃならん、大きな自由が与えられるというような、おかげになってこなければいけないと思います。
 私は毎朝、皆さんが若先生の先唱で、御祈念なさっておられる三十分間の間に、毎日お参りは出来ませんけれども、必ずお日届けというのがあっております、その方がですね、三十名近くあっております、それを先にお届けするのです、それを書き終りますと丁度十五分位かかります、丁度大祓が終った頃、いつも書き終るんです。それで後の十五分が、教典を頂いて今日の御理解を頂くのです。
 まあ十五分間の思索なんです、私の、そこから今日の御理解が生まれてくる訳なんです。勿論、思索と云うても夕べお夢を頂いた事又は御祈念中にお知らせを頂いた事、それを、仲々半字だけのようなお知らせを頂きますから、仲々分かりません、それを思索する訳です、考える訳です、これはだから、私の信心と練り合わせて出てくるのが、合楽の御理解なんですよ。
 もう私、いつもの事なんですけれども、今度のおかげの泉の今月号の読み合せを、昨日しました、ところがどれにしようか、これにしようかと云うのが出してあるのですけれども、読むと誰でもが、どれでもいゝと云う事になってくるのですよ。
 だからもうこれは日々の御理解がですねえ、もう毎日の新聞にせにゃ、とても出来ませんと云うて、昨日修業生の方達が申しておりました。そして、いつもですけれども、こゝはなおさにゃいけん、ここは抜かにゃいけんというところがあろうから、読むのですけれども、結局はいつの場合もひとっつも抜かない、又加える事もないもうこれは驚くばかりです。
 それは私の表現がまずいですから、まずい表現になっておりますけれども、まずい表現なりにそれが矢張り、頂かしてもらわんと後先のつヾめがつかん、と云うような感じですねえ。
 と云うような御理解もです、只今申しますように十五分間の、私の思索の中から生まれてくる訳です、これは余談になりますけど、その、毎朝こゝへ二十名の方達のお届けを書かして頂く中に、松の字のつく人が二人あるんです、福岡の松岡さんと、熊本の松村さん毎日、お日届けがあっとりますから、必ずお届けする人ですよ。
 その松岡さんをこゝに書かしてもらう時、松の字を書く時、もう非常に感動します、松村さんの松の字を書く時、兎に角有難いですもう、その実感です、これは、もう私は新聞で松の字を見つけただけで感動します、それはどういう事かと云うとね、まあ九州では松の信心とこう云われておる。私の先達であるところの桂松平先生、それから石橋松次郎先生、安武松太郎先生、もうそういう三大徳者の御信心の流れをくんで、合楽があるのです。
 ですからもう、いつの場合であっても、もうとても私の信心じゃあない、そういう先達の先生方の、言わば御指導と御守護、又はお取り次があって、今日の合楽があると云う事を、これはもう思い込んでおる訳です、ですから松の字を見たら感思の情と云うものが湧いてくるのじゃなかろうかと思うのです。
 これは毎朝、松岡、松村と書く時に感動するです。皆さんが財布を新しくされると、必ずこれに何か書いて下さいと云うて、こゝに持って来るでしょう、それで私が必ず、この精進さえ間違いなく、あなた方が持ち続けるならば、財布の中にお金の切れることはないだろう、と云うて私が書いてやります。
「松恵眞実之利」という字を書かして頂きます、これは以前御理解を頂きました。
 神様のおかげで頂いた利益こそが、本当の利益なのだという意味なんです、ですからこゝでは、桂松平先生、安武松太郎先生、石橋松次郎先生、そういう先生方の信心によらせて頂いて、頂けたものが、そういうお取り次の中から生まれてきたおかげであって、本当のおかげだと、私の力ではないというのです、みんな松のおかげだと、こゝではだから、松という事は金光大神に通じる事でもあり、天地金乃神にも通じる事なんです、その先生方がみんな金光大神につながり、天地金乃神につながっておられたのですから、だから松というのはその一番手前のもの、そんならこゝでは「親先生」と云った方が、実感的におかげ頂くと云うのと同じ事なんだ。
 いつも親先生が松につながってござり、云うならば金光大神につながってござる、天地につながってござる、だから同じ事なんですよ、だから金庫の中には「松の恵眞実之利」と書いて入れておいてあくるたんびに、こうやって沢山お金が貯まりよるけれども、これはみんな神様のおかげでと、実感させて頂いた、利益だけが本当の利益だという事です、私が働いて今日はようけ儲かった、なんてん事は、いかにもそれは貯まってごとあるけれども、貯まって事にはならない、真実の利にはならないという、これは私の考え方なんです、お互い蔭と日向の心を持つなと、先程申しましたように陰日向の無い、真面目な生き方をしろと云う事なんですけれども、私は今日は蔭と日向という、そういう意味でない事を、聞いてもらおうとしてる訳です。
 昨夜むつやの謝恩祭でございました、あちらでお祭りを頂き終ってからの、御理解でございますけれども、金光教の信心は神の願いによって出来た宗教だと、神の願いによって出来た宗教。
 例えて云うと、そんならそれに、対象として引き合いに出しますなら、仏教は人間の思索から生まれた宗教だと、そこんところにですね、もう根本的な相違と、又それから表れてくるおかげと云うか同じ宗教でありながら、天地程に違ってくる訳なんです。
 お釈迦さまの思索の中から生まれたというのは、例えば女は汚れたもの、女は罪深い者と説いておられますですね、それが段々お釈迦さまの信心が進まれるに従って、法華経を書かれる頃には、女も又、お道の言葉で云うと神の氏子とようやく認められたのと云うのが実際です。
 例えば自分の命を狙った者ですら助かるんだとか、女ですら助かるんだと、それでもやっぱり女ですら助かるんだという事で、おしまいになってます、ですから矢張り仏教では女人禁制、と云った難しい戒律があった訳ですね、おかしな事ですよね、男が女に接せられないなんて、世の中に百人の人間がおるなら、五十人は女である訳なんです、その五十人は罪深い者だという、どこから押しゃそういう事になってくる、それは思索から生まれた、いわゆる神様の氏子としての取り扱いをしていない。
 ですから それはもう素晴らしい、例えば拝むと云うても、私昨日、仏教のある偉いお坊さんが書かれた御本を、読ませて頂いておりました。そしたら、「帰妙は礼拝であるが帰妙必ずしも礼拝でない」という事が書いてあった。
 帰妙と云うのはね、南無阿弥陀仏の南無、南無と云うのは凡語だそうです、だからその南無と云う字を支那語に訳致しますと、帰妙という事になるんです、だから南無ということは、いわゆる仏様へ帰依するという事、だから帰妙も又、帰命とは仏の命に従う、という事だと云ってあります。
 ですから帰命とは拝む事、礼拝ではあるが、礼拝必ずしも帰命ではないと、これはどういう事かと云うとね、もうあなたに一切をお任せするのが、合掌の姿だと云う訳なんです、それで例えば求めるとか、仏様を利用する事の為に拝むのではないのだと云う訳なんです。金光教でもね、こう云う考え方をしてる人が沢山あります。
 信心にさえなりゃあと云う訳なんです、ところが金光教の信心はいわゆる天地金乃神様がですね、金光大神に頼まれて生まれた宗教願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせと、もう初めからね、願えと仰っておられる。
 だからこれは仏教だけではありません、金光教と他の宗教はその辺から全然、もう引き離された特別の信心だと、金光教は云えますと云うてそんなら、決して自分の我情我欲をのべたてろと云う事じゃないです、その後に理解申して聞かせて、本当の信心を分からせてもらえと、云う事になっておるのです。
 金光様の信心は、いわゆる任せて縋ると云う事です、だから私共は神様を拝むという事はです、お任せ致しますという事だけではなくて、同時にお縋りをするというのが、金光教の合掌なんです、この二つなんです、いやそうして願わなければこの神様は、悲しがられる神様なんです。それを昨日私は、私と若先生の例で話したんですけれどもね。
 まあだ十八才だったでしょうか、学院に参りましたのは、それはどういう事かというと、もう私に命を任せたのです、まあだ十八才の若いみそらでです、もうお父さんに命を捧げると云うた事なんです、お道の教師になるという事は、勿論あちらで誓約しなければなりません、一生を道の為に捧げるという誓約をして、一年間の修行を終って帰った訳なんです。
 ですから今度は若先生が、どんな無理を私に云うてもです、無理とはひとつも思わない、それをあゝそうかと云うてあげられるという訳なんです。もし何も願わんなら、お父さんの方が寂しい、私共と神様の仲というのは、そういうものなんだ、いわゆる親子の情をもって説いておられます、天地の親神様が氏子という説き方をなさっておられますからね。
 ですから例えば、そんなら仏教から云うと、成程まあ、いろいろな理由がありましょうけれども、女は結局罪深いと、いわゆる助かりにくいと、それでも段々、お釈迦さまの思索から生まれた信心であっても、段々分かっておいでられてから、女でも助かる事が出来る、と 法華経でも云っておられる訳です。
 男は初めから助かるばってか女は助かりにくい、業が深いと云う訳です、いわゆる同じ人間であって、男だから、女だからと云う事は決してない、だから女は寄せ付けられないと云うのが、仏教の考え方なんです。大変困った事ですよねえ、そういう事では、そういう例えば見地からいくところから、皆さんもご承知でしょうが、久米の仙人と云うのがありますよね、久米の仙人が雲に乗って遊行しておった、ところが眼下に綺麗な女の人が、川で洗濯をしておった赤い裾のものがチラッとした途端に、その雲から転落したと云うお話があります。
 これはね、仏教的思想と云うか、そういう観念、女という者は罪深い者だ、女と交わりどもしたらもう、術が消えてしまう、その為に山にこもってしまわにゃならんといったような、そういう観念なんです、人間ですからどこでどういう心が起こらんとも限りませんそん時に例えば、おかげを落としてしまうと云うような宗教じゃあ無いのです、金光教の信心は。
 例えば今日は蔭と日向と云う事ですけれども、そんなら人間が果たして、日向ばあっかりの生活が出来るか、そうかと云うて裏街道的な、蔭ばあっかりという事でもない、蔭もあれば表もあるけれどもです、蔭でしておる事も表でしておる事もです、問題はね、神様有難う御座いますと云う事が、云えれる信心を頂いておくと云う事なんです。所謂私がさっきから申しますように、私は松の字を見ただけで感動する、神様のおかげでこれは頂いたんだと云う実感が、松の恵みは真実の利という、そういう事が思い込めたらもう、貴方の財布の中には、貴方の金庫の中には、決してお金の切れ目はないだろうと、云う程しのおかげなのです、おかげと思い込むという事なんです、だから矢張り、働きよるとは自分が働きよるとじゃあない、神様のおかげで働かして頂きよるんだと、神様のおかげでこれをさせてもらうんだ、そのさせてもらう事の中には、日向でする事もあれば、蔭でする事もあると云う事なんです。
 だからその蔭でする事が悪い事、女は罪深いといったような事ではなくてです、その陰陽いずれもの中に、私共がおかげをおかげと実感させてもらえれる信心を頂いておかなければならん。
 自分で言い訳したっちゃつまらん、これは金光教では例えば、悪い事をしようとしましょうかねえ、悪い事じゃなくても自分は悪い事と思うている、心の底に久米の仙人じゃないけれど、観念的に、下におる女を見て情慾を起した、途端に転落する、それを悪い事だと思っておるからなんです、情欲というものは、御情欲と云う事になったら、食欲でも性欲でも、御の字が付けられる時、食べすぎたらいかん、大酒大食は絶食の元になる。
 けれどもそれを只、適当に有難く頂くという事は尊い事なんだ、大変違ってくるでしょう、仏教の思想と 金光教の思想と、それは人間の作った宗教ではない、天地の親神様が、氏子可愛いという一念が、金光大神に神頼みになられてです、どうぞ難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれと云うところから、始められた宗教だからなんです、それで男と女を神様が作っておられて、男と女が一緒になったら ばちかぶるとか、雲の上からさでくり落ちにゃいかんと云う事じゃ、絶対無いと云う事です、本当に久米の仙人に教えてやりたかった、金光教の信心を。
 こら自分は蔭と日向の心で、蔭と日向の事をしとるとじゃなかろうか、蔭でしよる事を日向さえ持って来んならん、と云ったような事ではない、蔭でせにゃならん事もありゃあ、日向でさせてもらう事もある、さしてもらう事柄の内容なんだ、けれども、どちらへしたところでです、陰であろうが陽であろうが、その中にです、神様有難う御座います、と言わば合掌する喜びの心というものがあればね、感謝をする心があればね、それは、私は蔭と日向の心を持つなよと、いう事はね、只これは表面だけで説けばです、陰日向の無い日常生活をせにゃならん、これなら金光様の信心じゃなか者でん同じ事です、それだけなら。
 金光様の信心が段々分からせて頂いて、教祖が説かれるところ、天地金乃神様の御思いというものは、分からせて頂くとです、男も尊いなら、女も同等に尊いと分からせて頂いて、陰陽の道理に相合体するといった事でもです、それは但し御の字を付けさせて頂く信心が続く限り、それはおかげであると云う事。
 お釈迦様は云っておられますように、神仏を例えば利用するという事、只求めるだけ、これは金光教でもやっぱ許されないと思う。只自分の云う事ばっかり、それでも願う氏子におかげを授けと仰っておられますけれども、それが又もし続いておるとするならば、それは本当の意味において、金光教の信心じゃあないと、かと云うて願いの筋道とでも申しましょうか、これはまあ親が子に縋るという気持と云うでしょうか、そんなら矢張り痛いなら痛い、痒いなら痒いを、素直に願うという事が有難い事だという事、いや願わなければ神様の方が寂しがんなさる。
 これは神様がね、例えば願わんでも、頼まんでもおかげを下さる神様ですけれども、願わなければ下さる事の出来ない場合もあるのですよ、そして願われて親は喜んでおる。
 けれども例えばね、自分が使いもきらずにですよ、沢山な金を下さいと云う事は、これはおかしい、沢山な金で怪我します。
 子供がお芝居見に行ってから、チャンチャンバラバラを見て来てから刀を買うちくれと、そしたら、おもちゃ屋に下っとる刀は買うてくれましょうけれども、子供は本当にスカスカ切れるとば求める訳です。そういうものを親が渡す筈もなし、与える筈もない。
 自分な十文の足しか持たんな十一文の足袋を買うてくれ、なんてん云うたっちゃ親は絶対買うちゃやらしません、足袋でも靴でも、だからその辺のところをです、自分が十文なら十文で、その十文の靴が無くなったのならば、十文の靴をもう破れたけん買うちくれと云うのはもう当り前、「あら気がつかじゃった、そら云うちくれりゃよかったつに」と云うて親は買うてやるようなもん。
 例えばそれが真剣であろうがです、その氏子がそれを本当に自分の身の守りとしてでも、使える程しのものが例えば頂いた時には、真剣でも神様は与えて下さる、けれども子供に持たせたら怪我するでしょう、ですから私共が、願うという事は、どんな事を願うてもよいけれどもね、、その自分が願っておる事は、果たして親に聞き届けてもらえれるものであろうか、どうであろうかと云う事をね、一辺確かめてみる必要が、信心にはあるようですね。
 お道の信心でも拝むという事は、確かに神様にいわゆる帰命する天地の親神様に南無する、ここ迄は同じ人間の思索からでも、ここ迄は出てきた、けれどもそれから先が違う、お任せをするというのが、仏教で云う礼拝というのであるならば、お任せをする、そうして又任せてもらえると云う事、云うならば三代金光様から頂いております御教えの中に「氏子が神様任せなら神様が氏子任せになると仰せられますから」と仰っておられます。
 だから私共が神様任せになると云う事が第一、けれども氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから、と、神様お頼みしますと、今度は神様が私任せになられる事を願わなければならないでしょうが、氏子がどげな風に思うとるか分からん、だからこゝでは神様が私任せになってもらわんならん、と云う事になる訳です、今日はどうぞ天気のおかげを頂かせて下さい、と願うなんかは、神様がその氏子任せになって下さって、例えば降るところでも照るおかげにして下さる。
 私は昨日から、この事を思っているのですよ、はゝあ成程、氏子任せになると仰せられますから、と仰る、こちらが神様任せになっとりゃ、神様はどんどんおかげ下さるというだけじゃない、それもそうですけれども、矢張りこちらが願わなければならない事は、願わして頂く事によってです、神様がその願いを聞き届けて下さる。それが金光様の御信心だと、今日の蔭と日向の心を持つなよと云う事をです、私は今日は今申しましたような事で、聞いて頂いたんですけれどもね。
 例えば思い込むと云う事、例えばそんなら久米の仙人もです、女も尊いものである、人間に起こる例えば、欲望が我欲でないならばその慾は与えられるものだ、そしてそれを辛抱せんならんと云うものじゃ決してない。食べたいものをイライラしながら食べないといったものじゃない、食べたらばちかぶると云うその観念が、ばちかぶって云うなら雲から落ちた。
 そういうところを、私は今日は蔭と日向という意味で聞いて頂いたんです、蔭でも良い、日向でも良い、人間はいわゆる日向ばっかりにおれるというものでは無いけれども、蔭にあってもです、神様有難う御座いますと、云えれる心こそが実を云うたら、蔭もなければ日向もない、いわゆるおかげの世界だけしかない、という事を今日は聞いて頂いたんですけどね。
 皆さんが、例えば私が今日申します、松の字を書くたんびに私は感動するという事、という事は、いかに私がね、松のおかげを頂かなければ、私が立ち行かんのだと云う、思い込みが強いかという事が分かる、その思い込みが強いから、私はおかげ頂いておるという事が云える、例えば皆さんで云うならば、親先生のおかげでと、こういう思い込みがね、例えば強ければ強い程、親先生と云うだけでも、心に感動を覚える位なね、私はひとつの、こゝでおかげ頂くからには、どうでも親先生抜きにする事は出来ないのだから、そういういわゆる頂き方の出来れる信心を頂いてもらったら、今迄蔭と思うておったその蔭の中に光がさしてくる、有難いと云うお礼の心が生まれてくる、そこに私共の行く手にはです、云うならば蔭もなければ日向もない、天地の親神様の、私共に下さろうとするおかげはそういう、ひろおい範囲に於いて、おかげを受けてくれよと願っておられる、だからこそ金光大神がこの世に、御出現になったのですから、出来る範囲、広い、例えば、これはドライと云う事じゃないですよ、信心も分からんのに割り切ってから、人間じゃけんこん位の事は当り前、というこれは御無礼です。
 けれどもそれを本当に有難いと頂けるところまで、いけと云うのです、そこに広々とした金光道が開けてくると思うですね。
                          どうぞ